雪深いアルテピアッツァに、美唄市内の私立アカシヤ幼稚園の園長でもあるマンフレード神父さまがやって来て何冊もの書籍を買ってくださいました。 12月6日に神父さまがアルテピアッツァについて日頃感じていることをお話しするのだとおっしゃいます。誰でも聞けるそうなので、私たちもとても楽しみにしているのですが、もしも都合がつくのでしたら、みなさんもいかがですか?というお知らせです。 マンフレード神父さまも「美唄のアルテピアッツァは、日本や世界の人々に“生と死”について語っています。その神秘は何によって伝われるでしょうか。私が自分で感じていることを皆さまと分かちあいたいのです。どうぞ、みなさんお気軽にお越し下さい。」とおっしゃています。 ◆日時:12月6日(木)午後6時30分~◆場所:カトリック美唄教会(美唄市東2条南3丁目2-10 ℡:0126-63-2434)
やっと語る方が出てくれましたか。アルテのテーマは「生と死」なんです。死があるから一生懸命生きる。死があるから生が生まれる。当たり前なことですが、それを自然を見つめながら実感できる場所。それがアルテの本質であると、密かに思っていました。西洋のようで実は東洋的要素を色濃く含んだこの場所は、宗教の違いを超えて人間の本質について考えることができる場所なんですね。今流行りのヴァーチァルでない存在を確認してみてください。
Comment by 都会に出た熊 — 2007年12月3日 @ 10:34 PM
テーマ、そうですね。
地元にいながら神父様のお話を聞きに伺えないのが残念です。
昨年亡くなられた、外科医で医事法学にも詳しかったA先生(侃先生の古くからのご友人でした)が、侃先生の作品から、小松左京の「果てしなき流れの果てに」を思い起こす、と言っておられたのを思い出します。
「輪廻」、といってしまうとそれだけではないようにも思えるのですが、初期の版画のモティーフである「卵」は再生の象徴ではありました。
アルテピアッツァ自身が喪われたコミュニティの再生でもあります。
大きな「卵」でしょうか?
私にはそれ以上のことは言えません。
ただ、ギャラリーからアルテピアッツァの季節のうつろいを眺めて時を過ごすときに、
自らの来し方行く末を思いめぐらせることは確かだと思います。
なにか、大きなものに抱かれる安心感(癒し?)を感じつつ・・・
Comment by びばいのゴーシュ(NPOアルテピアッツァびばい理事) — 2007年12月5日 @ 2:14 PM
アルテで落ち着けるのは、守られているという感覚を持つからです。何に守られるのか。それは自然であり、祖先です。あまり語られていないアルテの砕いたレンガを敷き詰めた道はその象徴です。北海道に残る柱状列石、イギリスのストーンサークルはそんな自然と祖先、そして今生きる自分たちがつながるための装置だったとも言われています。天聖の中で響く木霊。夕陽に輝く石舞台。雪の積もるのにあわせて見え隠れする生誕。アルテの1つ1つはそれを感じさせるために、深く考えられた作品なのです。
Comment by 都会に出た熊 — 2007年12月5日 @ 4:54 PM
“都会に出た熊”様、含蓄の深いコメントいつもありがとうございます。
いろいろな方面にご造詣が深く、貴重なご指摘、いつも感服しております。
私は逆に都会から美唄に住みついた「ねずみ」でして(笑)、
ふるさとを持たない「流浪の民」がアルテにふるさとを見出すことができた思いでおります。
どうぞこれからも、ご教示、ご指導いただけますことを、地元の関係者の一人として
心よりお願い申し上げ、期待するものです。
ありがとうございます。
Comment by びばいのゴーシュ(NPOアルテピアッツァびばい理事) — 2007年12月5日 @ 6:45 PM